I-cine/gustos

 映画評 



助太刀屋助六

  映画の見方

いやぁ〜〜村田雄浩さんには笑わされました。
いいねえ。私は、どうしても武田鉄也さんの『思えば遠くにきたもんだ』だったかな、そのときの柔道部員のイメージが強いんだけど、最近はもぉう、すっかり御自身の世界を見せつけてくれてます。
もうひとつ私のツボにハマったものが、岸田今日子さん。
念仏を指揮しだしちゃって、でも、このシーンで笑った人はあまりいなかったように思う。
あまり面白くないのかな、と思って後で見た人に聞いたりすると、気がつかなかったっていう人が多い。
どこ見てんの?そんな気にさせられるんです。
おそらく指揮棒を持つぐらいのことをしないと今の人は気づけないんじゃなかろうか。


アメリ

  作品?商品?

いつのころからか映画が1000円で見られる日が増えてきました。
日本の映画は高い。と思っていましたので、これには大賛成でしたが、ちょっと気にならないでもなかったのです。というのは、1000円の日はいつも混んでいたのです。
1000円で込んでいるのと1800円でガラガラなのと、どっちが儲かるんだろう。
1000円が安いから見に来るのか、映画の価値を1000円と考えているのか。
ところがこの『アメリ』、1800円なのに立見が出ていました。この前見た『メメント』も立見でした。『オー、ブラザー』も『おいしい生活』もまずまずでした。
ということは、1800円でも映画館に足を運ぶということになります。
しかし、ところが、But。この4作品には共通しているものがあります。
上映館数が少ない(アメリ・オー、ブラザーは2館メメント・おいしい生活は単館by東京)。
ここで私が考えるのは、映画人口は2種類ある、ということ。
1800円払っても見たい映画は見に行くというタイプと、べつにビデオを待ってもいいんだけど1000円で安く見られるんだったら見に行ってもいいってタイプ。
提供側(映画館)にも2種類。映画を商品と考えるところと作品として考えるところ。
もしかしたらこのバランスがあいまいなところでとれているのかもしれませんが、映画ファンの私の考えでは、今、単館上映の映画に群がる人々は、見たい映画を探しているんです。惜しまれますね。名画座の閉館が。
今、厳選した映画を上映しつづければ、1800円取らなくってもやっていけると思うんだけどなぁ。
これは、経営ってものにまったく携わったことのない私の無知ゆえの夢想だろうか。
アメリのことも一言、ハッピーエンドってのがいいです。アメリの子育て奮闘記で続編を作ってもらいたいですね。



タイガーランド

  ラース・フォン・トリアーの旗

『ドグマ95』ラース・フォン・トリアーの掲げた旗ですね。
いろんな戒律を決めて映画を作ろう。と、始めたもので、要するに、みせかけだけの騒々しい映画なんて止めようって旗幟だと思います。
ちょうどそういうことを考えてたらしいですね。この映画の監督さんも。やっぱりいきものって、気づくときは気づくんだよね。なんにも考えてない人は、その存在を知っても共感はしない。
人に影響を受ける。ということは、自分の中にあるものが共鳴して強くなってくるんだと思います。

この映画の語り部であるパクストンもそうです。
そして、除隊していくマイターにしても小隊長役になっちゃったからハリキッてただけで本当は戦争なんてイヤだし戦場が恐かった。だから、そういうことを正直に言動にしているボズを押さえきれないところがあった。じゃあ狂気のウィルソンはどうか。ジツはこの男の中にもボズに共鳴する部分があった。あったればこそ過敏な反応をした。私はそう思います。

人間は弱いものです。
その弱さを否定する戦争。弱さゆえにそれを拒めない人間。
戦争というのは、人間にとってジツにヤッカイなものですね。


ペイ・フォワード

  作者の求めるもの

また見ちゃった。ハッピーエンドと手放しでは喜べないイイ映画。
この映画は、啓蒙的で、明らかに観客にその後のアクション(ペイ・フォワード運動への参加)を求めています。そして、それには相当な覚悟が必要であることを暗示しているわけです。
この詳細はプログラムの中にある脚本家の山田太一さんのコメントが的確に現していますので、私の言葉は不要でしょう。

フィールド・オブ・ドリームス(違ったかな)でも、作家役の演者が言います。
「かってに夢を見ておいて、現実で壁にぶち当たったときに、その責任を私のところに持ってくるな」みたいなことを。
作者(提供者)は、観客にアクションを求める。しかし、行動に移すことの大変さも同時に伝える。
これは、作家の自己防衛意識でしょうか。
私はこう考えます。
甘い覚悟で失敗した人に、自分の甘さをタナに上げて、行動に移すことの大変さばかりを先贈りされてはかなわない。
自己防衛ではなく、自分の発案に対する防衛ではないか。
作者の求めるもの、それはブームで終わらないムーブメントなんだと思います。


ダンサー・イン・ザ・ダーク

  新しい評価をつくらざるをえまい

私はハッピーエンドの映画が好きです。
それ以外でもいい映画はたくさんある。しかし、ハッピーエンドでないというだけで私から低い評価を受けているかわいそうな映画が多い。
しかも、私の要求するハッピーエンドというのはストーリーとしてのハッピーエンドにとどまらず、その設定にすらも注文がつく。
そういう選にもれた多くの良作に、私はいい映画ではある。といった不遜な評価を下してきた。
しかし、この映画をそういって退けるほどの勇気は私にはない。
尊い映画ですね。
ただ、やっぱりツライ。
そこで私は、この映画の続編を自分の中で創作し、満足することにします。

母親を失ったジーンは誰を恨むことなく成長する。ただ、真実を知りたいという思いだけは持ちつづける。
高校を卒業したジーンはジェフに協力を求め、母親の事件を洗いなおす。
そして、事件当日、ビルが銀行でしわしわの小額紙幣を両替していたことが判明する。
このあたりから、セルマが本当にお金をためていたのかもしれないと信じて協力する人間が増える。
そしてビルの同僚の中にビルの異変を感じていたものもあり、いよいよ町中がセルマびいきになる。
いたたまれなくなるのはリンダである。
しかし、それを気遣うジーン、ジェフ。
それがつらいリンダ。そんなとき、ビルの遺書を発見してしまう。
『リンダ、真実を告げられない僕を笑ってくれ。しかし、僕のために殺人犯になってしまうかもしれないセルマを助けて欲しい』から始まる文章である。
ビルはセルマの住むトレーラーハウスで自殺することを決意していた。
もちろん、リンダを喜ばせるために無断でお金を借りたことを謝してからのつもりである。
ところが、その日セルマは会社をクビになり、予定より早く帰ってきてしまった。
しかも、リンダが感情的になっている1番悪いタイミングである。
そして、現実は遺書とは違い、ずいぶんリンダにとっては都合のいい結果になってしまったのだ。
はたして、この遺書を今日発見した。といって通じるものか。しかし、遺書を処分することもできずリンダの苦悩の日々が続く。
そして、リンダが気づくのは、沈黙を守りつづけたセルマの強さである。
その強さの源泉は自分の息子のため、リンダの夫との約束を守るためというところにある。
おのれの弁護のために沈黙を守りつづけるということが不可能であることを悟ったリンダは、ジーンに真実を告げるため遺書を持って家を出る。
ここからは、真実を知ったジーンの笑顔、リンダの勇気をたたえる街の人たちのフラッシュ。そして、最後に天国で微笑むセルマ。



雨あがる

  
やっぱり山本周五郎はいい!

日本映画を見て、よかった。と思えたのは久々ではなかろうか。
私は黒沢映画をほとんど知らない。ハッキリ覚えているのは「七人の侍」と「まあだだよ」ぐらいです。
想像だけでモノを言いますが、晩年の黒沢映画ではあそこまでのハッキリした物言いはなかったのではないでしょうか。重すぎるゆえに言いきれないような面があったのでは、などと勝手ながら思うのです。
『雨あがる』この作品は晩年の黒澤師には完成できない作品であったのかもしれませんね。それでも必ずあとを取ってくれるものがある。という確信があり、遺されたのではないか、そんなふうにさえ思えるほどに、すべてにおいてこの映画は傑作であるのではないか、などと思います。
まず、主演寺尾聰「エッ、あの人が時代劇?」これで足が遠のきました。
ところが、半年以上かけて剣の稽古をしたそうですね。おみそれいたしました。だって、正面からのショットで剣がぶれないんだもん。
予告編での夫婦の会話「リアリティがなさ過ぎるんじゃないか」しかし、この映画は最近の映画とは違うんです。
最近の予告編というのはハイライトシーンを見せて観客を誘うようなところがありますよね。この映画は違う。その後にいい場面が待っていたり、その前からのつながりがあるとないとではその場面の味が違うのです。
黒澤組もスゴイかもしれないけど、恐るべし山本周五郎。こう思わせる映画でもありましたね。

ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア

  日本映画は見習うべきです

私は最近の日本映画で気になってたことがあるんです。
エグ過ぎるんですよね。血が出たりする場面、私にはグロテスクにしか思えない。そんなシーンを競っているかのようなところがある。
この映画はギャングが出てきて警察と撃ち合ったりもする映画なんだけど、血の流れるシーンがないんです。
映画は見世物じゃない。素人であるから言える発言かもしれませんが、ヘンに映像に頼ったものを映画だとは呼びたくないですね。
そういえば、たけしさんが『菊次郎の夏』でトライしていましたね。


踊れトスカーナ!

  どうしちゃったのイタリア

いやぁ〜とんでもない映画を見ちゃった。『踊れトスカーナ!』
私はね。外国映画のタイトルに対して、どぉーも、その、ちょっと。って思うことが多いんです。でもね、この『踊れトスカーナ!』は踊れトスカーナ!って感じですよ。いい。
原題は『Il Ciclone』サイクロンですね。
東宝の出してるプログラム(なんであれプログラムっていうのかな。パンフレットだと安っぽい感じがするとでも思ってんだろうか)の監督の談には「人は安定を望んで暮らしてるようだけど、非日常的なことを期待してもいる。その非日常(サイクロン)が現れたときは、その流れにまかせちゃっていいんじゃないの(意訳)」とあります。
もちろん、この物語はトスカーナの田舎町に突然現れたスペインフラメンコダンサーズに町じゅうが浮かれるさまが描かれてるから踊れ!なんでしょうけど、映画全体の印象が踊れ!ってお祭り的な感じで、ジツにいいです。
人間というのは、予期せぬことが起きた時うろたえるものですよね。そのとき、そのことに前向きになれる自分を信じよう。そんな自分になるためには、毎日をまじめに一生懸命生きてる必要がある。もっといえば、リスクのない刺激ばかりを求めて暮らしていては自分の人生そのものがバーチャルに成り下がってしまうんじゃないのか。
思いこみの激しい私は、この映画にこんなメッセージを感じました。
それにしても『ライフ・イズ・ビューティフル』『踊れトスカーナ!』とイタリアはやりますなぁ。


君を見つけた25時

  トニー・レオンがいいのか、香港映画がいいのか

トニー・レオン、私はこの人、知らなかったんです。
1998年の暮れに『裏街の聖者』を見まして、この作品に対してとてもいい印象があり、1999年『キミを見つけた25時』を≪ぴあ≫で見つけたとき、トニー・レオンにつられて見に行きました。いいんだよなぁ。
私はこういう映画が大好きです。
主人公は広告会社のディレクター。女の子を売り出すのはうまいんだけど、必ずその子に恋をしてしまい。有名になったら捨てられちゃうという男です。
こういうのはきっと〇〇君なんてコトバがあるんだろうな。利用されるだけの男。
でも、魅力のない男が映画の主人公になることはない。ちゃんと魅力が分かる女の子が現れるわけです。これをヴィヴィアン・スーがやってます。
私は、香港映画という認識をもって見た映画というものがないので、香港映画っていいなぁ。なんて思ったりもしたんですけど、トニー・レオンという人はあきらかにいいですよ。

cabeza veo DVD